2012年に東京ステーションホテルがリニューアル。丸の内〜行幸通りを西に進むと皇居前広場。東京駅西側の丸の内エリアでは丸ビル、新丸ビル、KITTE、三菱一号美術館など。
東側の八重洲、京橋周辺は京橋エドグラン、東京スクエアガーデンや広大な地下街がよく知られている。
江戸城
太田道灌が1457年に武蔵野台地の東端に築城したのをその前進として1590年に徳川家康が江戸城に入って以降、大幅な拡張工事。開幕後は天下普請(全国の大名に命令して行わせた工事。1603年に70家に命令された、神田山を崩して日比谷入江を埋め立てる工事が始まりと言われる。大阪城や二条城も同様の方式で作られた)
1636年に外堀が完成、二重の堀を有する江戸城が完成し、その2年後には五層の天守が建てられる。
天守
江戸城の天守は1607、1623、1638の3回築かれている。いずれも五層(地上5階、地下1階)1657年の明暦の大火で焼失後、保科正之の進言により天守の築城は行われなくなり、明暦の大火の翌年に加賀藩前田家に築かれた天守台だけが残っている。
明治以降の江戸城
維新後、東京に拠点を移した新政府は旧江戸城西の丸御殿を皇居とするが、1873年に焼失、赤坂離宮を仮皇居にした。1888年に皇居内に宮殿が再建。西の丸に造営された明治宮殿は1945年5月の東京大空襲で焼失。現在は旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部分が皇居東御苑として一般に公開されている。この東御苑の中には松の大廊下跡がある。忠臣蔵の発端。
桜田門
現存する見附の一つ。1860年3月3日の桜田門外の変がよく知られる。井伊直弼暗殺。
一丁倫敦、一丁紐育
明治維新以降に今の大手町周辺に政府の諸機関や軍用地などが置かれるようになった。1888年前後の官庁集中計画が立案されると84000坪の軍用地が岩崎弥之助に売却され、1894年にジョサイアコンドルの設計による三菱一号館が完成すると、馬場先通り沿いにのき高を50尺に統一した煉瓦造りの街が出現、一丁倫敦と呼ばれるようになる。1914年、東海道本線の起点として東京駅が開業すると、行幸通り一帯に東京海上ビルや丸ビルなどの近代的な鉄筋コンクリートビルが登場。一丁紐育と呼ばれた。

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